最初に
エッチなお話ではないので興味ないおにいさんはこの時点でバックしてね💖💖💖
「性同一性障害です」
初対面である医師は私という存在を、傷つけないような優しい言葉遣いで諭すように言い放った。
自分の心の正体を何度も掴もうとしては離れていゆく、藁をも掴む辿り着かない自分の心の有り様に、
苦しくも病名として名前がついた。
医師に渡されたチェックシートに該当する項目を記入をして、簡単な質疑応答を繰り返して、その日の内に診断が下された。
既存の症例から近しい症状の名前を読み上げられて、貴方は「そうゆう者です」と伝えられても、宙に浮いたような言葉は腑に落ちることはなかった。
小さい頃から今まで絶え間なく変化して形を変える心に、翻弄され続けたものに名前を与えられた瞬間であった。
ようやく答えに辿り着いたような安堵感と、まだ出会って間もない赤の他人のたったの一言であっさり済まされる虚無感に襲われた瞬間でもあった。
病名がつけられマスメディアで大々的に世に浸透されたことで、世間の認知が広まって理解してくれようとしてる人達が一気に増え生きやすい世の中になった。
そこに対しては心から感謝している。
しかし、「自分の正体は一体何者なのか?」という問いは私の中で止どまることはなかった。
私はそうゆう者だと名前をつけられても、答えに辿り着いたわけではなかったし、問題が解決された訳でもなかったのだ。
何者であるか小さい頃から自分なりに思考を繰り返してきたものを、この数十分の問診で今まで悩み巡らせてきた思考を止めてしまってもいいものだろうか?
医師は、
「個性ですよ」
と、付け加えるように私という存在を傷つけないような言葉回しだったけれど、反面。
性同一性障害という名前で片付けているような突き放された気持ちにもなって私には受け入れられなかった。
巷では、「何者にでもなれるとかなれない」とか、「自分探しの旅」とかキャッチーなフレーズが飛びかっている。
豊かな日本の社会でコロナ禍が続いて時間が有り余って、ふとした時に「自分という存在は一体なんなのだろう?」という漠然とした悩みを抱えている人達が増えてきた。
そして、それに沿うような広告や動画が大量に打ちだされてきた。
ハーバード大学名誉教授であるガルブレイスはこう説いている。
「19世紀のはじめには、自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもらう必要のあるひとはいなかったであろう」
今、正に自分という存在が何者であるかを医師に教えてもらいながらも、その名前が真実であるか私自身に判断を強いられている状況でもあった。
小さい頃から、些細な理由があって女性になりたいという想いもあった。
色んな人達から
「小さい頃から女の子の気持ちだったの?」
「いつから女の子になったの?」
そんな質問を投げられることがある。
服装や外見のことを指しているのか、どの時点で自分は女性という自覚を持ったのか、どちらの意味を問われているのかは分からない。
ファッションやメイクであれば、高校生の時です。とはっきり答えられるが、心に関しては未だにはっきりと応えられない。
小さな出来事の積み重ねが女の子として、生きていきたいという想いを呼び起こしてきただけのことである。
例えば、男の子というだけで、
力仕事を任されたり、苦手なスポーツを習わされたり、髪の毛も自由に伸ばせなかったり、可愛いと感じるグッズもピンク色なら持たせてもらえなかったりする出来事は幾度となくあった。
誰しもが幼少期から大人になるにつれて、〇〇しなければならないという強要めいた課題にぶつかるであろう。
小さい頃は、男の子の遊びも女の子の遊びも区別がなかったものが、大人になるにつれて、男の子はサッカーや野球、女の子はおままごとやお人形遊びをする等、誰が決めたかは知らないが「〇〇なら〇〇しなければならない」という強要が突然のしかかってくるのである。
その強要は子どもから年を重ねるごとに増えていき、そして強くなってゆく。
服装や髪型や、仕草や立ち振る舞いまで、それまでになかった鉛に似た概念のようなものをどんどん持たされて、
それがさも当たり前のように日常の中に溶け込んでいくことに常々違和感を覚えた。
周囲を見渡せば、鉛なんて持ち合わせてないかの如く、平然とやってのける様を見ていると私の方が何かおかしいのかな?とさえ思えてくる。
そのような小さな出来事の積み重ねや違和感から、女の子に対して妬みに似た羨ましさを感じていたのかもしれない。
女の子になりたい、綺麗になりたいと思うようになった大きな要因は、至極シンプルなものだった。
もし、女の子になれたなら
好きな男の子に振り向いて貰えるんじゃないか?だ。
幼少期から、恋愛対象が男性だった自覚はあったけれど、性自認が女性かははっきりとしてなかった。
男の子として生きたいというよりは、女の子として生きたいという位の心の持ちようである。
もしかしたら、ただの同性愛者なのかもしれない。
女性として見られたい、愛されたい、そんな承認欲求や変身願望の成分も含まれているのかもしれない。
私は、男の子でもなければ、女の子でも、女装でもなければ、男の娘でも、女の子でも、ニューハーフでもない。
他者へ分かりやすく伝える手段であって、会社員のような肩書きに似たものと感じながら使用している。
言葉には、他者が生み出した勝手なイメージのようなもの存在する。
女装は、普段は男の子として生活していて趣味や変身願望の一環で時と場合により女の子にもなるイメージ。
男の娘は、女装という名前の若い世代、20代前半くらいまでのイメージ。
ニューハーフは、女性の気持ちを持っていて普段から女性として生活している、あるいは夜の職業のようなイメージ。
他にもGID、トランスジェンダー、MtF、アセクシャル等、沢山あるがそんな人達も世の中にはいるんだなぁ…と、
世間のイメージは大体こんなものではないだろうか?
私がニューハーフという言葉を選んでいるのは、現在ある言葉の中では一番近しいし、最も相手に伝わりやすいからだ。
私にとってニューハーフという言葉は簡単に相手に伝える手段の一つであって、私自身はどれも当てはまっているようで当てはまっていない。
何者かという答えを自分の中で探しても探しても、それはやはり今も見つけられていない。
なので、現時点では見つけられなくてもいいという結論に達している。
何故なら、自分が何者かという課題は、死ぬ直前に今まで自分が歩いてきた道を振り返ってみた時にでも分かるような気がしているからだ。
私という人間は常々変化していく生き物なので、来年・再来年には周囲の影響を受けながら考え方も未来では思考回路も成長しているかもしれないが、過去は変えることができない。
過去にしてきた自分の行いを眺めれば、自分が一体何者なのか構成や輪郭が見えてくる筈だ。
だから、今は何者かということを追い求めるのは辞めている。
その変わり、今、自分がしていることや自分の本当にしたいことは何かを問いただすようにしているし、一日一日を出来るだけ悔いが残らないように努めている。ヘマをしでかすこともあるかもしれないし、泥臭い経験や苦い恋愛も含めて私だ。
心の有り様はその時々によって変遷する。
性嗜好も、SだとかMだと曖昧な表現をされるが、男性であろうが女性であろうが、偏っていたりするだけで千差万別である筈だし、その時の心境や相手によっても形も変ずる。
感情の波や心境の変化は季節や気分によって波のように何度も形を変えながら押し寄せてくるものである。
だからこそ、死ぬ直前に自分の心が何者なのか、過去を振り返り、今までの道筋を辿りながら
自分が一体何者なのか_。
最期の瞬間、その問いに向き合いたい。